月に叢雲 花に風

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  act.10  









!そこに置いてある書巻持って来い!」

「はいはい!これ!?つかこれは置いてるじゃなくて落ちてるって言うんだ!あとお茶入れといたからみんな飲んどいて!あとそこで突っ伏して寝てる人!寝るんなら隣の部屋に床敷いといたからそこで寝ろ!風邪ひきでもしたら元も子もない!寝て復活してから働け!」


吏部を駆け回る一つの小さな影。
その影は、本来ならばそこにいるはずもない見慣れないもののはずだというのに、今では何故か妙に吏部に馴染みきってしまっていた。

恐るべき、吏部マジック。













月に叢雲 花に風
 act.10













「・・・何故あいつがここにいる。」


眉間に皺をこれでもかと寄せながら吏部尚書は呟いた。
今日も今日とて社長出勤(いや、来てはいる。ただ仕事をしないだけで。)の彼だったが、吏部の扉を潜ると目に飛び込んできた光景に我知らずがっちり眉間に皺を寄せたくった。


―――何だ、あのチミッ子は。


吏部内をちょこまかちょこまか、偶にドカドカズドドドと駆け回るそのチミッ子は慌ただしく書巻を片したり、潰れている官吏を介抱したりと中々忙しく駆け巡っている。
あのチミッ子には、見覚えがあった。
確か先日、恐れ多くも兄上と一緒に出仕してきたクソガキだ。

・・・・・・・・・・・・羨ましすぎる。


「・・・黎深様?どうなさったんですか?」


そうのことをずっと親の敵でも見るかのようにジトーッとねめつけていた紅 黎深に絳攸はおずおずと声をかけた。
いつも自分は損な役回りだ。
と内心涙しながら。(いや、もう諦めてはいるのだが。)

そんな絳攸に向かって黎深は先ほど呟いた言葉を今度は少し声を大きめにして言った。


「何故あいつがここにいる。」

「ああ、のことですか。今日から少し手伝ってもらうことになったんですが、それがどうかしましたか?」


黎深の視線を追った絳攸はいたって平然と(聞こえるように努力して)そう答えた。 のことを詳しく話したほうが良いのだろうが、いかんせん今は時間がない。

次から次へと湯水のように沸きあがってくる案件とその処理速度が明らかに均整がとれていないのだ。
が細々と動き回ってくれることにより、少しは効率がよくなってきてはいるが、それでもまだまだ、だ。

それにここは吏部。
仮にも女人禁制であるはずだというのに人事を管轄する部署に女人がいては元も子もない。
何故かあの時はの「手伝いますよ」発言をありがたく受け取ってしまったが、バレればそれなりにヤバイことになるだろう。
だからして、ここで警戒なしに話して他の官吏に聞かれるのは避けたかった。

実際のところ、のことを猛という名の男だと紹介してやれば、の格好と喋り口調・服装から判断したのかその紹介を疑う者は誰もいなかった。(それはそれで悲しい。)

とにかく、今は目前の仕事をさっさと終わらせてしまう方が最優先時効だろう。
と思っての行動だ。
全く、この人が働いてくれればこんな仕事ものの数時間で終わるというのに。

そう愚痴にも近い思考を巡らせつつ次の書簡へと手を伸ばした絳攸にとって、次の黎深の行動はまさに予想だにしないことだった。


「―――!」


黎深が、を読んだのだ。

ギョッと目を見開く。
さっきまで何故かもの凄く鋭い視線をに送っていたのだ。
何かよからぬ事態になりそうだという己の予感は残念なことにおそらくは間違っていないだろう。

せっかく平然を装ったのに無駄な苦労で終わるのかッ!?

と思わず内心で舌打ちする。
それでなくとも時間がないという時に!!

黎深の呼び声には一瞬そちらの方向へと顔を向け、そこにいるのが兄馬鹿紅黎深だと知ると思わず「げ」と嫌そうな表情をしようと強張る筋肉たちを渾身の力で戒め、持っていた書巻を傍にいた官吏に渡してから黎深の方へと足を向けた。


「おはようございます、紅尚書。何か私に御用ですか?」


黎深の前まで歩いてきて、にっこりと笑みを浮かべるに絳攸は内心で汗を流し、ひやひやしていた。


・・・・・・・・・何でだ。何ではあんなに敵意剥き出しなんだ!?


纏うオーラが尋常ではない。
それに「おはようございます。」が副音声で「おそようございます。」と脳内変換されて嫌味たっぷりに聞こえてきたのも恐らく自分だけではないだろう。
黎深に負けず劣らず、親の敵を前にするかのような怒気を込めた笑み(目が笑っていない・・・)を浮かべるとその視線を真正面から受けている黎深。


恐い。恐すぎる。の奴、一体なにやらかしたんだ・・・!?


と吏部官吏全員が心を一つにした。
いつもに増して仕事に取り掛かり、次から次へと沸いて出てくる仕事を必死の形相で片付けるのに没頭したのは言うまでもない。
もちろん、この居心地の悪すぎる空間から少しでも意識を別の場へと飛ばせるのには並の集中力じゃ到底足りえないのでそりゃもう必死で。
血走っていた目がさらにまた一段と真っ赤に血走っているような気がしてならない。


「・・・・・・・・。」

「・・・・・・・・。」


2人は依然黙り込む。


だから何やったんだ、―――ッ!?


今や滝のように流れ出る汗を何とか無視しようと、取り付かれたかのように仕事に没頭するが、まだまだ、だ。
それこそ、聞こえるもんは否応なしに耳へと入って鼓膜を震わすし、その場の空気ですら、長年で人付き合いを学んだ今となっては誰もが感じてしまうものとなってしまっている。
こういう時に限って何故だかいつもより聴覚がよくなった気がしてくるし、第六感でさえも何だか冴え渡っていくように感じる。

心頭滅却すれば火もまた涼し?

中国三千年の歴史?

そんなの嘘っぱちだ―――ッ!
死ぬほど集中してもこのダイヤモンドダストは回避できないじゃないか―――ッ!かーッ!かーッ!かーッ・・・(エコー)














2007/03/16
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